【第三章:たった九歳のI・N幹部3】
団長は、どうしても高潔な幹部像を目指そうとする僕たちをいつも気に掛けていてくれましたが、毎日S・S本部に一人で通うカーリーをとくに心配しているようでした。彼女はS・S本部に通い始めてから、だんだんと無口で暗い顔つきになっていきましたし、夜も不眠気味になっていましたから、本部通いは彼女にとって大きなストレスだったのでしょう。団長はときどき、眠れないまま短くはない時間を過ごすカーリーに、優しい真剣な声で穏やかに、諭しているようでした。
「カーリー、研究所に行くのがちょっとでも嫌になったら、もう行かなくてもいいんだ。あそこで何が起こっているか、I・N団長を任されるほど長い間軍に務めておいて想像もできないほど僕は間抜けじゃない。」
団長がカーリーに諭している間、彼女の声は一言も聞こえませんでした。それでも団長の声はいつになく真剣で、その内容は怪しげでした。
「カーリー、いつでもいい。明日の朝、もう出発していてもいい。ただ一言、行きたくないとだけ言ってくれれば、僕は君をS・S本部に行かせないということができるんだよ。」
団長はいつも、ほんの少しでもS・S本部に行きたくないとカーリーが思っているなら、彼女を手の届くI・N寮に留まらせておきたいようでしたが、彼女は頑なにS・S本部に通い続けました。目の下には黒いクマが染まり、顔色は青白く、疲れからやつれて、無口で鬱々とした表情しか浮かべなくなっても、彼女は「行きたくない」と、「休みたい」と言えなかったのです。一年くらい前、寮での訓練期間中、彼女が寝ぼけて「ママ」と呼んだほど信頼していた団長の言葉よりも強いものが、彼女にそれを言わせませんでした。
ですが彼女は、「行きたくない」という言葉とは違いましたが、僕たちにとってとても大事な、彼女にとっては隠すも話すも辛いことを言ってくれました。それは、僕たちが部下を持った冬の日からまた次の冬が過ぎた、暑い夏の夜でした。その数日前の夜にも、眠れない彼女を団長が諭していましたが、「おやすみ」を言う前に、その夜だけ、いつもとは違うことを言い添えていたのを僕は覚えています。
「行きたくないと言えるのなら、それはいつでもいいんだよ、カーリー。でも、それが難しいのなら、あっちで何があったのか、言えることだけでいい、僕に話して欲しいんだ。そうすれば僕は、君を本部に連れて行かずに、ここで休ませることができるからね。」
団長の諭す声に、たぶん初めてカーリーが答えました。それは小さな、弱々しい呟きでした。
「ありがとう、団長。おやすみなさい。」
「お休み、カーリー。いい夢を。」
このあと数日間、団長が見回りに来るまでにもう彼女は眠っていたようでした。眠れないカーリーと、彼女を諭す団長の声が聞こえなくなって幾日か目の夜、僕は団長に、「カーリーはもう眠ったの?」と聞きましたが、団長は微笑んで、「あの子はもう夢の世界にいるから、今夜はもう心配しないで、安心してお休み。いい夢を見るんだよ、チャーリー。」と僕を寝かしつけてしまいましたから。
あの会話から五日か六日後の夕食のとき、彼女は久しぶりにレオナルドを誘って中庭の散歩に出かけていたので、誰よりも遅く席に着きました。もう長いあいだ、散歩自体滅多にしていませんでしたし、カーリーが誰かを誘うこともほとんどなくなっていたので、それは珍しいことでした。
暖かいスープに白いパン、ステーキやサラダなど、すべての料理が並べられて、団長も席についてから彼女はダイニングルームに戻ってき、俯いたまま席につきました。
まずウーゴが「戻ってきたか。」と彼女を迎え、リコリスが「おかえりなさい。」と微笑みましたが、カーリーはただ俯いたまま首を横に振りました。不思議に思って、僕が「どうしたの、カーリー?」と聞くと、レオナルドが真剣な、少し重く暗い声で言いました。彼は妹といっしょに散歩をしながら、先に話を聞いていたのです。
「団長、カーリーが、ここで話すってよ。さぁ。」
頼もしい兄に促され、彼女は口を開きました。
「リコリスの、弟に会ったんだ。マーフィーって、男の子。マーフィー・オスカー・オルコット。六歳の子。ボクが担当になって、本格的に治療することになった。」
リコリスはピエロになった弟が親友に治療されていることを知って安堵のため息をはきましたが、言葉までは出ませんでした。小さな弟を想う彼女が言葉を発する前に、彼女の親友である、弟の担当研究員が言葉を続けました。
「治療するところは、何度も見てたし、助手だってやったから、一人での担当は初めてだったけど、どうすればいいかはわかってた。ピエロを相手にするときは、滑稽なことをしても笑わずに、家族や友達、楽しい記憶を思い出させればいいって。ボクは、そうしようとして、リコリスを呼ぼうと思ったんだ。リコに会えば、声を聴けば、きっとマーフィーはよくなるって。」
カーリーは一度言葉を切って、俯いたまま顔をあげませんでした。リコリスが少し食い気味に、
「ねぇ、あたしは呼ばれなかったわ。カーリー、どうしたの、何があったの?」
と早口で聞きました。かわいそうな担当研究員は、I・Nの制服の袖ボタンを外し、何も言わずに袖を捲り上げました。僕たちは彼女の右腕を見て絶句し、レオナルドは顔を背け、団長は深いため息をつきました。薄い巻きの包帯を解いて晒された彼女の右腕には、鋭く尖ったもので深く刺されたような傷がありました。
「マーフィーは、デスクに置いてあったペンを、ボクの顔を狙って刺そうとしたんだよ。たぶん、目を狙ってた。ボクは咄嗟に顔を庇ったから、ペンは僕の腕に刺さったんだ。」
目にペンのように鋭くて細長いものを思い切り突き刺す、大きな武器を隠せない場合行われた殺人方法の一つです。柔らかい眼球から鋭いものを刺すと、脳にまで達して人を殺すことができる、明確な殺意がなければできない攻撃を、ピエロになったマーフィー少年はカーリーにしたのです。
「マーフィーは、普通のピエロだったんだよ…。人を笑わせるために、滑稽なことばかりして、それでピエロとして保護されたんだから。でも、ピエロは人を笑わせるだけなんだ。笑わなかったらもっと滑稽なことをするけど、人を攻撃したりしない。マーフィーは…新しいピエロ、サイコパス・ピエロに、なっちゃったんだ。」
僕たちは、もう何も言えませんでした。大人しいピエロを傷つけずに保護するためにI・Nに入り、二年間訓練を受け、I・N幹部になったのです。小学校も卒業せずに、人を殺しかねない恐ろしいサイコパス・ピエロと戦うためではなかったはずでした。
「ごめん、ごめんね…こんなこと、言いたくないんだけど…でも、ボク、聞いちゃったんだ。研究室の人たちが、言ってた…。たぶんボクたち、サイコパス・ピエロを…専門的にやらなきゃいけないかもしれないんだよね…。訓練も、できてるからって…」
こう続けたカーリーの声はほとんど泣きそうに震えていました。彼女は唯一の研究員、“調教師”ですから、僕たちに比べると訓練の時間は少なかったうえ、僕たち四人は教わっていた銃の使い方も教わっていないのです。彼女よりたくさん訓練を受けた僕や実動部隊でもこの先サイコパス・ピエロを相手取るなんてことは考えるだけで怖いのに、どうして彼女が平静を保てたでしょう。
「なぁ、カーリー。お前今、『サイコパス・ピエロを専門的に』って、言ったよな?」
悪い予感を否定して、跡形もなく打ち消して欲しい。僕は必死に願いながら、ウーゴの声と俯いたままそれに頷くカーリーを見つめていました。ウーゴは、無理やり繕った笑顔を恐怖のために引きつらせながら、震える声で言いました。
「それってさ…俺たちI・Nだけが、サイコパス・ピエロを担当するってこと…じゃあ、ないだろうな?」
「そこまでは…わからないけど、そんなこと…」
サイコパス・ピエロと戦わなければならないかもしれない恐怖と、僕たちを守ってくれると思っていた本部の大人がサイコ・ピエロを僕たちに押し付けようとしている悲観とが、僕たちの思考をいっぱいにし、不安に震える声や涙を浮かべる目、無理に笑おうとして引き攣った顔に溢れ出ました。
しばらくの静寂のあと、頭を抱えて子供幹部たちの悲壮な声を聴いていた団長が、悪い考えを振り払うように首を横に振り、呟くように言いました。
「できるなら今、すぐにでも君たちを誘拐してしまいたいよ…。そうすることで君たちをサイコ・ピエロから逃れさせられたら、僕は迷いなく君たちを、無理やりにでも車に詰め込んで、もうここには帰って来やしないのに。」
きっとあの小さな家で僕のために祈ってくれているお母さん。団長の過激な呟きは、僕たち各々の本当の家族と同じくらいに僕たちを想って、守ろうとしてくれていました。
「そうしたところできっと、ピエロは僕たちを追ってくるのだろうね。たった六歳の子がペンで人を殺すことを知っているのなら、もう…。」
団長の沈んだ声は、僕たちを想う団長の深い愛情と、S・S本部の大人たちが僕たちに下すのであろう残酷な決定事項とを、僕たちに伝えました。僕たちはこれからどんどんと増加するサイコ・ピエロをI・Nだけで担い、治療するために命を懸けなければならなくなったのです。