【第一章:月が消える夜】
「いろは、帰ろうぜ。」
ピアノの前に座り、やっきになって鍵盤を叩く少女に少年が声をかけた。
二人とも、中学生だろうか。少年は着崩しているが、二人とも夏の制服を着ている。
「あとちょっとだけ…たぶん。」
「もう遅い時間だぜ?帰らねぇと危ねぇよ、こんなに暗いのに。」
少年は壁にもたれかかって、星座が駆ける窓の外を眺めている。夏は暗くなるのが遅いはずだが、少女はそうとう夢中になってピアノを叩き続けていたのだろう。少年がヘラクレス座を見つけて笑う声も耳に入らないらしい。
「さっきからずっとそこ弾いてるじゃねぇか。」
「あー…うん。難し…くって。」
楽譜を睨む少女には、会話に使うだけの意識も惜しく感じられるようだ。不自然に途切れた言葉に、少年がケラケラと笑う。
「見せてみろよ、楽譜。」
「うん…え?」
「ここか?」
「うん。でも、早く帰りたいんじゃないの?」
「分かってんなら返事しろよ、お前な…どうせここが弾けなきゃ帰らねぇだろ。」
「そのつもりだけど?」
ケロリと答えた少女にため息をつきながら、少年が少女の隣に座る。距離が近すぎるような気がするが、二人とも気にはしないらしい。少年が鍵盤に手をかけ、ゆっくりと楽譜をなぞって演奏してみせた。
「どうだ?」
「うーん…オッケー、できる気がする。」
少女がそっと鍵盤に手をそえ、たどたどしく指を動かす。少年の滑らかな演奏とはかけ離れていたが、今度は間違えることなく弾ききることができた。
「おし、帰るぞ。って、何してんだよ。」
帰り支度を済ませた少年にたいして、少女はまだピアノを続けるつもりらしい。まだピアノの前に座り、鍵盤に手を置いている。
「まだ練習する。帰りはセンセーに送ってもらうから、先帰ってて。」
「は?危ねぇって、さっきから言ってるだろ?さっさと帰るぞ。」
「だから、車で送ってもらうから!先帰っててよ。」
ピアノを弾き始めた彼女には、何を言っても聞こえない。少女の双子の兄である彼には、それがよく分かっていたのだろう。ため息をつきながらも、彼女を連れ帰ることはしなかった。
「早く帰ってこいよ。」
一言だけ言い残し、少年は荷物をもって部屋を出ていった。電灯のない暗闇に、制服の白がふらふらと歩いていく。少年が少女と、双子の妹と言葉を交わすのは、それが最後になった。
「VOCALOID。」
青年が、ポツリと呟いた。
「君は、VOCALOIDが好きだったのかい。いろはちゃん。」
暗い部屋。青年の声に、答える声はない。ただ、スマートフォンの着信音に設定された音楽が鳴り響く。
「そう。VOCALOIDが、好きだったんだね。」
部屋中をただよう生臭さ。ずるり、少年が足を滑らせる。スマートフォンの明かりが、部屋をほの暗く照らす。自転車を暴走させ、上がった息を整えることも忘れて、少年は絶叫した。
「いろはぁァァア!」
妹の帰りが遅すぎることを心配し、彼女が残ったピアノ教室に駆け込んだ双子の兄がそこで見たものは、胸にナイフを刺されて血を流す妹の死体と、窓際へと吸い込まれるように消えた紅い足跡だった。
[月と共に消えた彼女]
彼女は月を眺めるのが好きだった。
満月をみつめ、新月を想う、一風変わった少女だった。
子供っぽい可愛らしさのなかに、清らかな娘の神秘的な美しさがあった。
彼女の美しさは、彼女の身を滅ぼした。
彼女は男に襲われ、一人静かに生を終えた。
【第二章:月満ちた夜】
学校があるはずの平日の昼間。妹を亡くした少年は、一人で黙々と作業を進めていた。布と綿で人形を作り、鉄を埋め込んで骨組みを作る。翡翠を嵌め込み両目を作り、硝子の球を心臓の位置に。
彼は、妹にそっくりな人形を作ろうとしていた。妹と同じ身長で、妹と同じ髪の長さ、妹と同じ白い肌。まるで彼女を作り直すように、彼女をそのまま再現するかのように。月と消えた彼女の命を、月と共に満ちさせるように。
「疑似、生命…か。」
学校が終わるころの金曜の夕方。彼はとうとう、疑似生命を完成させた。妹にそっくりなただの人形に命を与え、妹にそっくりな少女型ロボットにするモノ。いつかは終わる生命を、そのまま再現した人形の命。
「なぁ、起きろよ…イロハ。」
月が満ちた明るい夜。絢辻イロハという名の少女型ロボットが、右肩に紫の蝶の片割れを刺繡した人形が、いつかは終わる、疑似生命を宿した。
「どうしたの?ナイト。」
少年がひどく優しく手を伸ばし、イロハの右肩に触れる。きょとんとするイロハの首に手をまわし、震える身体でソレを抱きしめた。少年の左肩と、ソレの右肩がそっと触れ合う。紫の刺繡糸と、傷口に塗られた紫の墨。ひどくちぐはぐな紫の蝶がぴったりと重なり、鮮やかな羽を惜しげもなく広げた。
[月と共に命が満ちる]
新生児のベッドには、ときおり紫の蝶が飾られる。
紫の蝶は、双子の証。
片割れを亡くした、生き別れの片割れの証。
【第三章:月の片割れ】
半分の月がのぼる夜。少年と少女型ロボットの楽園に、一人のオトナが忍び込んだ。
「こんなところにいたんだね。騎士くん。」
「センセー…生きて、たんだ。」
「VOCALOID。」
「…は?」
「君も、好きなのかい?VOCALOID。」
少年が、両手をきつく握りしめる。後ろ手にまわしたセンセーの右手には、あの夜濡れたままのナイフ。ぐったりと垂らした左手には、紅い滴を落とす一本の線。少年が襲われたとしたら、彼の少女型ロボットは少年型ロボットを作るのだろうか。彼に似せて、紫の蝶の片割れを刺繡して。
「ッ!…イロハちゃん。それは…ロボット三原則に、違反している、よ…」
少年が、大きく目を見開く。センセーの背中から胸にかけて、鋭い刃先が貫いている。少女型ロボット絢辻イロハが、センセーの背中にナイフを突き刺している。全体重をかけて、ナイフを握る手に力を込めて、かすかに目を細めて。
「ナイトを…守るためだから。」
ぎゅうッと力を込めて、ナイフを押し続ける。吐血しながら、センセーが呟いた。
「その…蝶々は。彼の…髪かい?」
「うん。」
「そう…よく、似合って…い、るよ…」
スッと身を引いて、ナイフを引き抜く。息絶えたセンセーの身体は、ズシャッと音をたてて床に崩れた。
「ありがとう、センセー。」
ふわり。ふわり、とイロハが微笑む。根本まで暗い紅色に染まったナイフを右手に持って、左手で右肩の蝶に触れて。
「イロハ?」
「ごめんね、ナイト。」
狂いだした私をとめて。
「もう…疑似生命、とめなきゃ。」
一瞬で。
「でも、そのまえに…」
ラクにしてよ。
「お願い…騎士。」
少年が、静かに両手を伸ばす。少女型ロボットを、抱きしめるように。
「ああ…いろは。」
少女型ロボットを抱き寄せ、冷たい背中に両手をまわす。少年は目を閉じたまま、一筋の涙を流す。少女型ロボットも目を閉じて、優しい微笑みを唇に浮かべた。
「おやすみ…愛してるぜ。」
疑似生命に繋がる、稼働スイッチ。少女型ロボットの背中に付けられた小さなスイッチが、少年の手によって、切られた。
[半分の月が紅く染まる]
ロボット工学三原則。
一、ロボットは人間を傷つけてはならない。また、危険を看過して人間に危害を与えてはならない。