車輪の下という物語を、読んだことはあるだろうか?
わたしはあの物語を一度、幼いころに読んだことがあった。
たしかまだ小学生のころだ。たった一度、あの壮大な美しさをもつ物語の序盤の切れ端だけを読み、わたしはそれきり数年間その存在を忘れてしまっていた。幼かったわたしの脳に、ほんのわずかな切れ端はその美しさを感じさせてはくれなかったのだ。心の成長に伴う精神的な無為な疲労と、仄暗い簡単な、ピストルや強いロープに導かれる逃げ道への穏やかな欲求を塵ほども知らなかった当時のわたしがその美しさを拾いあげ、感じるすべを持っていなかったこともあるだろう。
小学生のころ、わたしが知り得た天才少年ハンス・ギーベンラートはまだシュツットガルトへの受験旅行に出発すらしていなかったが、おおよそ十年の年月が経ち、わたしは唐突にかの天才少年の羨望された知力とそれを支えた夜遅くまでの勉強とに懐かしさを覚えた。そうして初めて車輪の下の全文を読んだわけだが、わたしはすぐにその物語のとりこになった。若い少年ハンスが毎晩夜遅くまで続けた勉強、授業ののちに行われた特別の補習、ラテン語やヘブライ語や、未知の言葉で顔を覗くホメロス、オデュッセイア、シーザーにクセノフォン。中学校受験を体験し、焦りと不安に追い詰められながらもふと夢想するクラスメイトへの優越感の、あの心地よさを知った、またかつて優良とされた成績が可から下へと滑落するときの無力感を身をもって感じた経験のあるわたしは、穏やかに、そして美しく描き出される少年像に共感的な魅力と芸術的な精神を感じ取り、それを抱き、車輪の下という物語に酔いふけるのは、ごく自然なこととして受け入れるほかなかった。
わたしはその物語のとりことなって放されず、耽美な夢に酔いしれながら、ひとたびふたたび、みたびよたびとその物語を繰り返した。
「ねぇ、僕には恋人がいるんだよ。」
これは、マウルブロンの神学校生徒の一人、ヘルマン・ハイルナーのせりふで、わたしがとくに美しく思えて、好きな文の一つだ。
わたしはこれをヘルマン・ハイルナーの声で想像し、耳を通さず脳で聴くことができるのだが、もしもできることならこのせりふを、ハイルナーの親友ハンスとして聞いてみたいと思う。このあとでハンス少年は、
「ねぇ、僕には愛人がいるんだよ。」
というハイルナーの言葉を、彼の悲しい想像だが、聞くことになる。
若く感じやすい少年の、成長のとちゅうでおずおずと芽生える愛らしい純粋な愛情と、同じ少年の声で発せられる耽美だが、ただれた不純な言葉。
わたしはぜひとも、できることならこのハイルナーのせりふを聞きたい。許されるのならば物語のなかに侵入って、ハンス・ギーベンラートのようにハイルナー少年と近しい立ち位置で。
「ぜひ頼むよ、ハイルナー!」なんて、わたしの口から発するにはおおそれた言葉を言うなんて、想像すらできるはずもないが。
わたしはぜひとも、ヘルマン・ハイルナーの声を聞きたい。
ねぇ、ぼくには愛人がいるんだよ。
そして、木立のなかに消えていく彼の姿を、悲しみにくれて見送りたい。
けっして追いかけやしないから。
ぜひ願うよ。叶わなくとも。