カズオ・イシグロの長編小説『日の名残り』を読了しましたので、ご紹介いたします。
コン、コン、コン、コン…
4回、丁寧なノックが合図となって扉が開くと、小さな紳士がゆったりと歩く。扉越しに見えるのは、真っ白な本棚の壁で囲まれた『空間』。
鮮やかな赤いじゅうたんに丸く着色され、こちらに背を向けて大きな肘掛け椅子が構える。
刺繡の入った足載せ台は、その役を果たすまで長い時を待つだろう。
少年「お嬢さん。」
穏やかな声で、小さな紳士が呼びかける。
返事はないが、重厚な背もたれの向こうでお嬢さんはふわと目を覚ました。
少年「ご本を持ってきましたよ、お嬢さん。」
大きな椅子に納まったまま、お嬢さんはぐっと背を伸ばし、そして手を口元にやってこれまでの退屈にため息をついた。
少女「待っていたわ、何を持ってきてくれたの?」
小さな紳士は歩いていって椅子を横切り、お嬢さんの前に立って、一冊の本を差し出した。
少年「カズオ・イシグロの『日の名残り』を。」
片手は肘掛けに預けたままお嬢さんは左手を伸ばし、紳士の手から本を受け取った。
『日の名残り』カズオ・イシグロ
少年「ごゆっくりどうぞ、お嬢さん。」
読書を楽しむためには、やはり、静かな部屋がいい。
紳士の心遣いを丁重に断り、お嬢さんは部屋を去らないよう告げた。
少女「これを読み終わったら、これはどんな本だったのか、わたしは誰に伝えればいいの?」
お嬢さんは肘掛け椅子に、小さな紳士は足載せ台に、それぞれ本を開いて座った。お嬢さんは一心に文字を読み、小さな紳士は俯いて動かないお嬢さんの顔をときおり見つめながら。
お嬢さんの手の中で、訳者のコメントを数ページ残して本が閉じられる。
二時間か三時間か、俯いて一心に読んだ首をぐっと見上げ、おずおずと柔らかい息を吐いて、お嬢さんは小さな紳士を見やった。
少年「感想をお聞かせ願えますか、お嬢さん?」
あらすじ
イギリスのダーリントン・ホールで長年勤める執事スティーブンスは、アメリカ人の主人が旅行で屋敷を開ける間、休暇を取って小旅行をする。
美しいイギリスの田園風景をたどりながら、執事として務めてきた長い年月を回想し、様々のことを思う。
三十年余り仕えた前の主人、ダーリントン卿への敬慕。彼の卿のころに屋敷で開かれた、世界の進路を決定する第一次世界大戦後の重要な外交会議。理想の執事としてもっとも尊敬する父の姿。主人に引き連れられた他の執事たちと語り合った、執事としての品格。ダーリントン卿に共に仕えていた、女中頭のミス・ケントン。
六日間走りつづけた車の旅を終着させた海辺の町で、スティーブンスは長く執事として仕えた年月を想って誇り、桟橋で灯りがともされるのを期待して日暮れを待つ人々を眺めている。
後ろを見て悔やんでいるばかりではいけない、前を向いて、楽しまなくちゃ。
桟橋で居合わせた男の言葉を考え、スティーブンスは新たなアメリカ人の主人に最良のサービスを供することを思う。
主人が執事に望む任務として、ジョークで楽しませてくれることも、けして不似合いなことではないだろう。
感想
[執事としての品格、執事のあり方]
少女「そうね、これは、とても読みやすい本だった。そして…文体が心地よかったわ。
スティーブンスは品格ある執事であろうとし続けているし、執事としてよくわきまえて いるから、彼の言葉にも丁寧な気遣いがあるのね。」
少年「ええ、そうですね。僕はまず、そこが気に入りましたよ。」
少女「貴方も読んだの?」
少年「ええ、読みましたよ、お嬢さん。」
少女「そうなのね…。ねぇ、執事というのは、こんなものなのかしら。」
少年「こんなもの、ですか?」
少女「ええ、思ったのだけれど、スティーブンスの考える執事像は、主人を盲信し、個人の人 格はなくして主人のために存在するもの、のようだわ。
自分より優れた者に仕え、高貴な主人を支えることが至上の名誉、そう言えばいいかし ら。」
少年「ええ、そうですね。」
少女「彼は己の階級にふさわしい範囲に収まっていようとするのね。主人は高貴な人間だか ら、屋敷で非公式の国際会議を開いて世界の行く先を会議する。自分は主人に仕える身 だから、主人の日常を最良のサービスでもって支え、それを最高の名誉とする。」
少年「スティーブンスは、イギリスの階級社会的な考え方が染み付いた人物なのでしょう。階 級社会はお嫌いですか?」
少女「嫌い…ではないわ。ただ、なんだかつまらない考え方だと思ったの。
主人の判断を何より正しいと信じて、自分では考えないのは…わたしには合わないわ。」
少年「確かに、歯がゆく感じられますね。ですが、お嬢さんも僕もそう感じられるほど、この 小説は細やかに練り込まれているのでしょう。」
少女「ふぅん…この小説の作者は、誰だったっけ?」
少年「カズオ・イシグロですよ、お嬢さん。日本の生まれですが、幼いころに渡英して、イギリスで育った方です。」
少女「そうなの。それで…。」
少年「…彼は、この小説でブッカー賞を与えられています。イギリスの出版社から毎年、その 年出版された英語の優れた長編作品に与えられる賞だそうですよ。」
少女「へぇ、そうなのね。」
纏め
愛想よく低い足載せ台に腰掛けたまま、小さな紳士はお嬢さんを見上げた。
少年「いかがでしたか、お嬢さん。お嬢さんと僕、二人で読書をしてみましたが。」
お嬢さんは膝に置いた本とその上に載せた両手を見つめ、小さな紳士には考えるかと思われたが、顔をすっとあげてすんなりと、口を開いた。
少女「よかったわ。楽しいもの。長く待っていたのは、このためだったのね。」
少年「それはよかった、楽しまれたのなら何よりです。」
少女「貴方は、どう?貴方も…?」
少年「ええ、もちろん。場所を同じくして読み、同じ本を語らえたのは、とても楽しい事でし たよ。」
小さな紳士がお嬢さんの顔を見上げているのを、お嬢さんは落ち着いてしばらく見ていた。
小さな紳士の愛想のいい顔立ちと、澄んだ真っ直ぐな表情を。
少女「ありがとう、貴方。いい本と、いいひと時だったわ。」
少年「こちらこそ、お嬢さん。」
お嬢さんはずりっと椅子の上で身体をずらし、本を片手に抱いて足のつかない肘掛け椅子から降り、小さな紳士に目をやった。
小さな紳士はお嬢さんに微笑みかけて、立ち上がる。
少年「どうぞ、お嬢さん。」
お嬢さんは肘掛け椅子の前に立って部屋をぐるりと見渡し、そうしながら慎重に本棚を見比べて、とうとう四方の本棚のひと区画に決めた。
白い仕切りの本棚に、黒い背景を白抜きしたタイトルの背表紙が追加される。
お嬢さんの本棚に、新たな一冊が加えられた。