ヘルマン・ヘッセ『郷愁』 本の紹介
コン、コン、コン、コン…。
4回、丁寧なノックが合図となって扉が開くと、小さな紳士が静かに歩み入る。扉の向こうに見えるのは、真っ白な本棚の壁で囲まれた『空間』。
鮮やかな赤いじゅうたんに丸く着色され、こちらに背を向けて大きな肘掛け椅子が構える。
刺繡の入った足載せ台は、本来の役を与えられるまで、長い間主人の成長を待つだろう。
少年「お嬢さん。」
穏やかな声で、小さな紳士が呼びかける。
返事はないが、重厚な背もたれの向こうでお嬢さんは待っていた。
少年「ご本を持ってきましたよ、お嬢さん。」
大きな椅子の背もたれに隠れてはいるが、お嬢さんはぐっと背を伸ばした。
少女「また来てくれたのね、今度は何を持ってきてくれたの?」
小さな紳士は歩いていって椅子を横切り、お嬢さんの前に立って、一冊の本を差し出した。
少年「ヘルマン・ヘッセの『郷愁』、または、『ペーター・カーメンチント』です。1904年に 初版が刊行された、ヘッセの処女作であり出世作です。」
少女「翻訳は?」
少年「高橋健二氏です。」
少女「そう。」
お嬢さんは椅子の上でわずか身を乗り出し、小さな紳士の手から丁寧にその本を受け取った。
『郷愁』ヘルマン・ヘッセ
少年「ごゆっくりどうぞ、お嬢さん。」
小さな紳士は、今度は部屋を去ろうとせず、役目を果たしたことがないまま放り出されている足載せ台に座り、手元の本を開いた。
お嬢さんは手に収まった本を丁寧に開き、静かなまなざしでさっそく読み始めた。
小さな紳士が本から目を上げ、その真剣な顔をそっと見上げても、お嬢さんはもう気づかない。
どうやら、今度の本は何か特別らしい。
やがて、小さな紳士も手元の本に視線を落とした。
あらすじ
話の始まりは、スイスの高地にある小さな古い村、ニミコン村で。
とある村人ペーター・カーメンチントの生涯が、ペーター自身によって語られるという形で、この小説は書かれている。
ニミコン村は、その人口のほとんどをカーメンチント姓が占める古くから続く村。村人の代々の性質として、無愛想で、言葉が少なく、厳しいしわが刻まれた顔が共通し、険しい山々と豊かな自然に囲まれながら、重苦しい雰囲気が村にいつもかかっている。
そんな村でカーメンチントの一人として生まれ育ったペーターは、幼少期から自然を好んで過ごす自然児であり、険しい山々や吹き荒れる南風(フェーン)、照らされるなめらかな湖や無邪気な草花の様子を観察し、親しく愛する詩人の心を持った子供でもあった。
学校では、わんぱくものの友人の侮辱的なからかいに目一杯殴って応酬したり、恋した少女のために危なっかしい山登りを果たし、花の一枝を採ってくるなど、冒険的な学生時代を過ごす。
やがて、ペーターは文筆家を目指すために都会に出る。
健全な若者らしく、ペーターは活発できれいな音楽家の青年リヒャルトと友情をはぐくんだが、リヒャルトとの死別、さらにその後の卑しく見栄っ張りな人々との交際から離れるために、静かな町へ、さらに田舎へとさすらい出る。
町での生活は、芸術を解する美しい少女エリーザベトへの恋情と交流を、田舎での生活は、裏表のない朗らかな人々との親密な交際をともない、都会の生活とは変わった快活な日々として過ぎる。
やがて、故郷に残した父の病状の悪化を告げる手紙と、田舎の生活の中で得た良き親友との死別をきっかけとして、ペーターはニミコン村に帰郷する。
子供時代から懇ろにはなれなかった老父の世話、村全体として流れる古くから変わらない生活を過ごしながら、壮年のペーターは穏やかで、朗らかにこれまでの生活を思い返す。
これからも、ニミコン村では、変わらない穏やかな日々が続くだろう。
感想
俯いて一心に、長い間集中して読まれた本が、あとがきまで残さず平らげられ、お嬢さんの手の中で閉じられる。
小さな紳士は自分の本に集中して、お嬢さんの読了に気づかなかった。
少女「ねぇ、貴方。」
少年「はい、お嬢さん。」
少女「これ、ヘッセなの。」
少年「ええ、そうですよ。」
少女「美しいわ。美しかった。素朴だけどきれいな言葉、豊かな自然が描かれていて、友情と恋情が澄みきっている。」
少年「はい。」
少女「全体として、穏やかなのね。そして、読み物としてとても豊かだけれど、これは物語とは少し違うような気がするわ。ねぇ、貴方はどう思ったの?これも、読んだのでしょう?」
少年「ええ、読みましたよ。この作品は、ヘッセ本人、それともヘッセの体験や、確かな体験に基づいた深い思考の現れ、と言えるのではないかと。」
お嬢さんは、手のなかに収まる小さな本を感嘆の眼差しで見つめている。小さな紳士は、お嬢さんの思考に立ち入らないように控えめにその姿を眺める。
やはり、この本は特別な一冊となった。
少年「お嬢さん。」
少女「ええ。何?」
少年「この本の内容、物語として見るならば、お嬢さんはどこがお好みですか?例えば、僕は一章のペーターの母親が亡くなるシーンが、厳粛で独特の雰囲気があって好きなんです。」
お嬢さんは本を開き、パラパラとページを送って流し見し、終盤のページを開いた。
少女「私は、ここ。七章と八章の、ボピーとの交友が好きよ。田舎を放浪していたときの親友、病気でまひした青年ボピー。この人の心は美しいわ。ペーターとボピーの生活と互いへの愛、それにボピーの素直な性格、穏やかな心、きれいで、素敵。」
お嬢さんはページを開いたまま、足載せ台に掛けていた小さな紳士に本を差し出した。紳士は立ち上がり、丁寧に本を受け取って読み、頷いた。
纏め
お嬢さんがいつも掛けている、大きな肘掛け椅子の正面の本棚が選ばれ、穏やかな時間の流れる絵の表紙が飾られた。これからお嬢さんは、表紙の絵と共に小説を読んだ記憶を存分に味わいながら、過ごすことができるだろう。
少女「ねぇ、今日も素敵な本をありがとう。」
少年「どういたしまして、お嬢さん。」
少女「『郷愁』、とても好きよ。」
少年「それは何より、です。」
少女「また、貴方に来て欲しいわ。この本を選んだ貴方が選ぶ本を、もっと読みたい。ねぇ…名前を、教えてくださらない?」
少年「もちろんですよ、お嬢さん。僕は、僕の名前は、ハイネでございます。」
少女「そう、ハイネ。ありがとう、私のために本を選んでくれて。」
ハイネ「どういたしまして。僕は貴女が喜んでくださって何よりです、お嬢さん。」
少女「ヘルミーネと、呼んで。私の名前はヘルミーネ。」
ハイネ「はい、ヘルミーネ。」
ヘルミーネお嬢さんの本棚に、新たな一冊が加えられた。