生まれ変わりがあるのなら、私はひとりの男になりたい。
この生がいま終わろうと、私はきっと彼になる。
私は彼をよく知らぬ。
彼はむかしの文豪で、名前を中原中也という。
彼には可愛い子供が居って、それは文也といったらしい。
文也は幼く死んだけれど、彼はとても悲しんだ。
私は彼の泣き顔をみたい。
中原中也という男の、子供に流れた涙に濡れたい。
私が彼になりたいわけは、それ一つにはおさまらない。
むしろ上は、後付けと言える。
もう一つの本当のわけは、とうに燃え尽きた流れ星。
彼の酒癖が悪いことだ。
彼はすでに死んでいて、注いだ酒が減ることはない。
もちろんそれは周知の事実。
だが彼の、酒での話も有名だ。
文也が産まれてじきのころ、とある酒の席があった。
そこで彼は酒に呑まれて、「なんの花が好きだい?」とからみついた。
青鯖が空に浮かんだような顔をしやがった太宰治が相手だった。
太宰は甘ったるい声を出して、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」
この五文字を発音することにおいて、私を満足させることができる者はいないだろう。私は思う。
私はすでに二度の戦争を終えて、やっと迎えた平和な時代に産まれている。
太宰が死んでもう何十年も経っているし、彼だってもう何十年もまえに死んでいる。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」を発した本人も、引き出した本人もとうにいない。
重々承知している、重々承知しておいて、私は「モ、モ、ノ、ハ、ナ」を引き出したいし、聞きたくてたまらない。
他の誰の声でもいけない。太宰治本人が、中原中也その人によって引き出された甘ったるい涙声で、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と、中原中也のからみの末に発した「モ、モ、ノ、ハ、ナ」でないと…。
私はいっそ、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」を聞くためだけに、今すぐにでもこの生を終えて、生まれ変わってしまいたい。
中原中也。貴方になりたい。