【第一章】
かけだしのジャーナリストだったわたしに届いた、一通の手紙。
力なく、華奢な少女を思わせる筆圧でわたしに手紙を送った主は、昔なじみの少年だった。わたしが大学進学のために上京するまで、いつもわたしを追ってちょろちょろと走り回っていた幼い彼は、わたしが東京に引っ越し、故郷の田舎に帰らずにいた七年のあいだに、すらりと細い身体と日焼けしていない白い肌に、勤勉な努力によってたくさんの知識を詰めた天才少年に成長していた。
中学校三年生になった彼は、小中学校の九年間を共に過ごした同級生たちと離れ、文武両道・高学力を掲げる都会の高校に進学するため、この二年間を受験勉強に費やしてきたという。
「期待の天才少年」として彼を見る小さな町の大人や子供たちではなく、久々に会ってわたしに話を聞いてほしい。ほんの少しだけ背伸びしたがる少年らしさを謙虚に秘めながら、それでいて大人びた理知的な言葉のなかで、彼はわたしを遠慮がちに見つめていた。
ぜひとも自分がそちらに行きたいが、放課後には夜遅くまで勉強があり、土日曜日にはたっぷりの復習が勧められているので、自分が東京に出向くことはできない。呼び出してしまって申し訳ないけれど、もしよかったらどうか一度、町の者には知らせずに帰ってきてほしい。日曜日の午後一時間程度なら、休養の散歩が許されているから。
理想的に成長を遂げたらしいなじみの少年の手紙に、わたしは喜んで会いに行きたいと返事を書いた。しろうとのわたしは、忙しいと感じられるほども仕事が入っていなかったうえ、わたしは幼かった少年しか知らなかったから。
かくして、七年ぶりのわたしの帰郷は、町の者たち、わたしの両親にも秘密裏に決まり、行われた。もちろん、成長した少年との約束を果たしたのち、両親や大人たち、また幼い子供たちにも会ったのだが、少年と一時間だけを過ごして七年ぶりの帰郷を歓迎で迎えられるよりか、もう少しでも余計に少年との時間をとって、町の者の怒りを買い、反感でもって迎えられたほうがよりよかったと、今や後悔が尽きない。
わたしがまだ地元の学生だったころ、幼かった少年にジュースなど飲ませてやった町唯一の喫茶屋で聞いた、成長した彼の一時間は、叫びを知らぬ魂の叫び、疲れに気づかぬ彼のため息だったのだから。
一日のうちで一番暑い、日曜日の午後一時から一時間、彼は勉強から解放される。町の大人たちは、少年の若い感じやすい心など知らなかったが、都会から流れてくる「過労」やそれによる急死、主に自殺や事故死などは興味深く聞きかじっていたので、せっかくの若い幼木を枯らすまいと、ほんのわずかの休養をありがたがって与えていた。少年はその時間を利用してわずか涼しい喫茶屋に待ち合わせ、わたしにたっぷりと話し語った。まず彼は、東京からの長い旅をわたしに感謝し、彼自身に濃いブラックコーヒーを頼んだ。わたしは彼と同じものを、少なくとも彼のとくべつの濃さよりは薄く、注文した。喫茶屋の若い娘は、わたしたちのことなど気にもかけず恋人に話しかけ、結果的に邪魔のない少年の休養を提供した。
「ぼく、誰にも言えない秘密があるのだけど、それを聞いてもお姉さん、きっと秘密にしていてくれる?」
「もちろん。ぜったいに秘密にするわ。」
コーヒーカップを指先でつついてみながら、少年はひといき飲んで、苦渋の顔で打ち明けた。
「ぼく実は、国語と英語がどうしても悪いんだよ。理科も、分野によって。数学や社会はうまく勉強できるけれど、国語や英語はどうもへたなんだ。分かりやすい勉強の方法がわからないというか、覚え方がわからない。勉強するときは、毎度繰り返しやっているから、どうにか覚えているのだけど、でもそのぶん、理科が手につかなくなって、都合が悪くなるんだ。お姉さん、このことはぜったいに秘密だよ!」
ぜったいに許されない殺人を秘密に告白した罪人のように、恐怖と罪悪とを抱えながら天才は贖罪を続けた。
中学校一年当初はまだ簡単で少し先取りで勉強することもできたけれど、二年生からの勉強が難しく、先取りがだんだん難しくなってきたこと、今ではもうだんだん前のところまで復習していかなければならなくなったこと、もうすぐ高校の内容の先取りも予定されているけれど、どうにもそこまでいけないことなど、少年は理想と現実との板ばさみに苦しんでいた。
さいきんずっと頭が痛むと微笑しながら、純粋なやさしさに苦しむ歪んだ皮肉も言った。
「ぼくが生まれた日から、毎年誕生日ごとに十万円ずつ、おばあちゃんがお金を貯めてくれているんだ。高校と大学に進学するためには、お金がたくさん必要だから、学資保険に。ぼくがまだらくに賢くあれた小学校時代はまだよかったけれど、だんだんそれも難しくなってきたでしょう?これから高校、大学といい学校に入らなくちゃいけないのに、中学校程度でこのザマだよ。もっともっと勉強はするけれど、もう今より賢くなれるとは思えない。大人たちはぼくがきっといい高校や大学に入ると信じているけれど、ぼくはそう思えないんだ。だって、いちばんよかったのは小学校時代だもの。」
少年のおばあさんはわたしも知っているが、とても優しい人だ。幼いころはよくお菓子をもらったし、いつもにこやかに笑顔を浮かべていた。だからきっとおばあさんは、純粋に孫を想って金を積み立てているのだろう。だが孫は、過度な期待に疲れていて、優しさすらも鋭利なナイフに見えるのだ。皮肉に鋭いナイフを細く白いのどにあてて、少年は渇いた笑い声をあげた。
「ぼく、思ったんだ。おばあちゃんは毎年、ぼくの誕生日のたびに十万円を、腐ったドブに投げ捨てているんだなって。」
どんよりと濁った、勉強家にとっては普段の休みよりいくらかマシな、一時間が遠慮なく終わりを告げた。恋人としごく楽しそうに、明るく話し込んでいた店の娘が面倒くさそうにわたしたちのあいだに割り込み、少年に帰って勉強するように言った。ほとんど嫌味のような言葉に少年は丁寧に礼を述べ、にこやかに席を立った。会計をしようと急いで財布を出すわたしに、娘に金を渡しながら少年は美しく微笑んだ。
「話を聞いてくれてありがとう、お姉さん。ぼくはもうすぐ高校生なんだし、一度くらいはいいでしょう?今日のお礼に、コーヒーくらい飲んでいって。」
ぎぃぎぃ鳴る古い扉を押し開けて、彼はまだ暑い外に駆け出し、懐中時計を握る時計ウサギみたいに、すぐに見えなくなってしまった。娘は一人残されたわたしに不愛想に小さなケーキを出してくれた。そのイチゴケーキとコーヒーは、初めて少年から頂いた、それきりわたしが食べることは最後の、喫茶屋のメニューになった。
【第二章】
昔なじみの、すっかり成長した少年に会ってから一年が経った。
わたしはまた一人東京にもどり、冴えないジャーナリストとして活動を続ける一方、ペンを握って思い出を彷徨う、作家としても活動を始めた。天才少年の短い生涯のうち、天真爛漫な子供時代と大人びた少年時代の両極に触れることができたわたしは、おそらくその両方ともを期待の虫眼鏡なしに見ることができた唯一であり、ささやかな救済として見出されたなじみのお姉さんとして、あの痩せた少年の短い生涯を書き残すことに決めた。
少年はあのあと、亡くなった。寒い冬の受験まであと二ヵ月を切った、冬の始まりだった。夜遅くまで課題を続けていた彼は、わずかな休みの入浴中、暖かい浴槽のなかで眠ってしまい、溺れて死んでしまった。
肉体的な疲労が覚醒を拒否し、疲弊した魂が暖かいまどろみからの脱出を諦め、彼は静かに亡くなった。
大人たちがもったいぶって与えた週に一時間の散歩休養は、天才の疲労を和らげるにはいたらず、過度の期待を背負った田舎町の少年は、どうしても打ち明けられぬ疲労を隠し抱き、暖かい休息の誘いに流され、溺れた。彼がどこにも吐き出せず、溜め込んでいた頭痛と心労は、彼を水底に縛り付ける枷と鉄球になっていたのだ。
わたしが少年と過ごしたあのわずかな時間は果たして、彼が望んでいた安息の時間となったのか。かの少年が不慮の事故で亡くなった今やもう、彼の答えをきくことはできないが、彼はきっと、もちろんだよと笑うだろう。
田舎町の喫茶屋には場違いな、背伸びしたおしゃれをわたしにくれた彼の優しさは、どんな期待にもひどく敏感だったから。
純粋な優しさ、喜びからうまれた行動にさえ彼はいつも、虚空の期待を見つけだし、応えようと勤勉だった。