こう言ってしまっては失礼にあたりますが、私にはこのような表現以外、彼らを言い表すことができないのです。
とても不思議な親子でした。
いいえ、保護者である永和さんも、騎士くんも、親子関係を否定されていましたから、私はこう言うべきなのでしょう。
とても不思議な方々でした。
そして、私は、騎士くんの心の苦しみを取り除くことができません。永和さんはすでに分かっていらっしゃって、それでもここにいらしたのです。
何人ものトラウマ持ちの子供を精神科医として診てきた私ですが、今度ばかりは、医者とて余所者。診断を下すとすれば、「騎士くんには、一切の治療は不要であり、彼のトラウマとそこからくる苦痛は、余所者によってゆがめられるべきものではない。」としか、判ずることができません。
しかし、それでも報告書は必要でありますから、私は書き記さなければなりません。先ずは、私の診察室にお二方が初めて入ってこられた折。
たいそう寒い雪の日でありまして、部屋には暖房をつけておりました。
約束の刻限を時計が打って、一分、二分が経っていたでしょうか。トントントンとドアが叩かれ、返事もせぬ間に少年が入室いたしました。寒さのわりに元気とみえて、コートや手袋はつけていません。わずかに手先が赤くなっておりました。
「君が、絢辻騎士くんかい?」
私がこう聞きますと、少年は
「うん、そうだけど。センセーが俺を診るの?」
などと、一切の物怖じなく聞き返しなどしてきました。
「そうだよ、よろしくお願いね。」
私に限らずほとんどの精神科医がまず利用するであろう当たり障りのない笑顔と台詞を述べますと、またノック、どうぞと言うとドアが開き、青年が入室いたしました。白い肌、理知的に少しくぼんだ瞳、しなやかな骨にわずかばかりの肉をつけたような華奢なこの青年こそ、後になってわかりましたが、人間完璧にはなれぬものというが、騎士少年の理解者であり擁護者であるという点においては完全だと感ぜられる、永和さんでありました。
青年は、若くして幾人かの身寄りのない、トラウマ持ちの子供と共に暮らしているということで、果たして子供たちの親手本として申し分ないような礼儀正しさ、気配りの細やかさでもって私に接し、それはまた、通りすがりの看護師や医師にも同じようでありました。
青年は、私が
「失礼ながら今の騎士くんの様子からでは何の問題もないように見えますが。」と申しますと、大人しく静かな笑顔で
「ええ、普段は元気なのですが、この子はいっとうの悪癖があるんです。」
と答えました。そしてまた、
「初対面の方にも関係なく癖をだして、驚かせてしまってはいけないので、私が先に説明するまで、癖を出してはいけないと言い含めておいたのです。」
と言い添えました。
そうしてその悪癖は、本人の体験記憶からなるものだと知らされ、私もそれを確信いたしましたが、そのくせというのが、こんなものでございました。
「トワ、もういいのか?」
また元気に少年が尋ねますと、青年はにっこりと微笑みましたが、それだけで返事としては十分だったようでした。少年は永和さんに巻いてもらったのであろう綺麗にまくられた袖から細い両の手を突き出し、私の首元を見つめて笑いながらに言いました。
「なぁ、センセー!首絞めていいか?」
ええそうです、彼は間違いなくあのとき、「首を絞めてもいいか?」と尋ねました。私はどうにも驚いてしまって、彼の手が私の首を触らずとも、どうしても声が出なかったので、永和さんが代わって、「いけないよ、ナイト。」となだめますと、少年はちぇーなどと冗談めかして言いまして、突き出た両手を引っ込めました。
「これがこの子の悪癖なんです。この子はいつも、だれかれ構わず絞め殺したがる。これで絞め殺したことはございませんが…」
未だに驚きから声の出せない私に、青年は穏やかな調子で申しますと、少し言
いよどみ、騎士くんに、少しだけ遊んでおいで、と言いました。診察室といえ
ど、やはり精神科。落ち着かない子供もくるので、遊ぶための玩具は揃えてお
りました。騎士くんは大人しく席を外し、ぬいぐるみの一つを手に取ると、た
めらいがちにその首元に指をかけ、すぐに外しました。
私がどうにか、
「いいんだよ、騎士くん。好きにお遊び。」
と申しますと、少年は私をみやり、あきらめたように笑って、次の人形を選び
ました。長い髪の日本人形なのですが、たいそう慈しむように、寂しそうに髪
を撫でてやり、抱きしめておりました。
青年はその姿にわずか視線をやって、小さくかぶりを振りました。
「じつは、この子には双子の妹がいたんです。いろはといって、この子と瓜二つ、可愛らしい女の子でした。ナイトとはまるで一心同体、いつも傍におりました。」
騎士くんはこちらの話などまるで聞こえないかのように、一心に人形を愛でて
おりました。壁にもたれて座った足の間に抱え込み、抱きしめながら髪を撫で
るのです。首には、手をかけませんでした。
「それゆえに、この子はこの悪癖を身に着けてしまったのです。くどい言い回しをしても仕方ありません、単刀直入に申します。この双子がちょうど八つの年でした。いろはが誘拐され、襲われかけたのです。いろはは体が弱く、ぜんそくを患っておりました。そのときもぜんそくの悪化で通院しておりまして、薬さえ欠かさなければ日常生活は送ることができたものの、もとより臆病な子でしたから、そのショックに耐えることができませんでした。パニックになりながらどうにか逃げだしたものの、ナイトがいろはを発見した時にはぜんそくがひどく、息も絶え絶えになっていたそうです。」
私はどうにか相槌を打とうと試みましたが、それは不可能でありました。私は
やっと「そうだったんですか…」とだけ、まるで医者らしくない相槌を打ち、
また青年は続けました。
「まだ知識も少ない八つの子供が、苦しむ妹にしてやれたこと。それが、首を絞めることだったのです。殺そうとは思っていなかったでしょう。ただ苦しそうな息をとめ、らくな呼吸をさせてやろうと、小さな手でいろはの首を絞めたのです。彼女は死にました。大人たちが二人を見つけたとき、もういろはの身体は冷たく、硬直を始めていました。」
私の声は情けなく震え、まともな音を成しませんでした。やっと発した言葉は、
それこそただの言葉の羅列でした。
「騎士くんが、いろはちゃん、妹さんを。」
ですがそれは、重く沈んだ青年の話を再び促すには充分であったようでした。
青年はまた、続けました。
「ええ、大人たちはみなそう言いました。彼は妹殺しとして恐れられ、実の両親に連れられて遠縁の親戚であるぼくのもとに来ました。環境が変わり、大人たちの好奇と蔑みの視線から解放されたナイトは、少しずつですが回復いたしました。ぼくのもとで暮らしてもう二年が経ちますが、他の子供たちとも仲がよく、元気に過ごしています。ただ、悪癖だけはべつですが。」
私はやっと正常の声を取り戻し、医者としての意識を取り戻しました。私は永和青年に、その癖の理由を騎士くんが話したことがあるかと尋ねましたが、青年は首をわずか横に振りました。それを言ってしまえば、仲間の子供たちが怖がって、嫌われるかもしれない。ここでも気味悪がれるのはイヤだから、と少年自身が言わないと決めたというのです。ですが青年は、そのほんとうの理由を察しているようでした。
「ナイトに、理由をきいてやってください。この先ずっと、一人で抱え続けることは辛いことですから、きっと話すはずです。」
彼はわたしに言うと、少年を呼び寄せ、代わりに彼が席を外しました。騎士くんは、彼が診察室を出る後ろ姿を見つめておりましたが、ドアが閉まるのを見届けると、さっきまで青年が座っていた椅子によじ登るようにして座り、ツンと澄まして私と向き合いました。青年の言葉のとおり、私は彼に尋ねました。
「どうしてその、首を絞めたがる癖が続いているの?」
彼は私を、睨むように見つめました。入室したときのような元気はありませんでしたが、人形を撫でていたときの寂しさもありませんでした。私が永和さんと話しているあいだに、私を大人として警戒し始めたようで、少しの敵対心がわかりました。彼は一言、呟くように言いました。
「反応を見たいんだ。」
彼の敵対の視線が、私の精神科医としての探るような視線を貫き、私の首に注がれました。
「俺は妹を殺したヤバいやつだって、町の大人たちが言ってた。通学のときの見守り隊のおじちゃんも、学校の先生たちも、親だってそう言ってた。だから俺はトワに預けられて、まる二年、誰も会いにこない。父さんも母さんも、優しかったおばあちゃんだって。俺が妹殺しだって知ったら、みんな俺を怖がって、会いたくなくなる。だから俺は、首を絞めようとしたときの相手の反応を見たい。」
彼は最後に、力なく天井を見上げて、言いました。
「俺を怖がらないやつに会いたい。みんなが俺を怖がるんだ。俺は、いもうとを殺したから。」
この直後、彼が椅子から飛び降りて、走って診察室を出て行ってしまってから、私は、少年の理解者に少しだけ話を聞くことができました。少年が教えてくれなかった、二つ目の理由です。
「ナイトは、どんなことを話しましたか?」
少年とすれ違って、少年のひとりだけの時間が必要だと青年は、一人で診察室に戻ってき、私に尋ねました。私は、騎士くんはどうやら首を絞めようとして相手の反応をみて、自分を怖がる大人かどうか確かめているらしいと答えました。青年は寂しそうに笑みを浮かべて、あの子にとって、信じられる大人はそう多くないのですね、と呟き、そして、あの悪癖の、騎士くんも知らない理由を話してくれました。
どうやらあの少年は、妹を殺すには至っていなかったというのです。
「仲睦まじい双子の妹に対して、ナイトが殺意など抱くはずがありませんし、八才の子供の握力には限界があります。いろははナイトに首を絞められて死んだのではなく、ぜんそくの発作で亡くなったのです。」
かわいそうに少年は、自分が妹を殺したと思い込み、そしてその手の感触を覚えてしまっているのでしょう。人の脳は、記憶を捏造することがあります。捏造された生々しい感覚は、記憶の矛盾に気づかせないのです。そして少年は、矛盾した記憶の感触を、他人の首を絞めることで塗り替えたいのです。騎士くんにとって、おなじ人殺しという行為であっても、その対象が双子の妹であるより、信用できない赤の他人であるほうが、罪悪が少なく感じられるのです。
ではなぜ永和さんは、騎士くんに真実を伝えないのでしょう。彼は妹を殺していないという事実は、少年を救うことができるはずでした。私の問いに、彼はこう答えました。
「伝えないほうが、ナイトのためです。もし伝えれば、彼は自分を孤独に突き落とした大人たちを恨み、憎むでしょう。そうなるより、いろはを殺した愛情だけを抱き続けるほうがいいんです。」
ほんとうに、不思議な保護者と子供でありました。永和さんと騎士くん。永和さんほど子供を想い、理解する保護者に、騎士くんほど、妹への深い愛情と突飛な癖を持つ子供に、未だかつて、あったことがございません。
これで、報告書を終いにしたいと思います。
失礼かとは存じております。ですが、彼らは、とても素敵な親子でありました。