「マリオネットよ、永遠なれ!」
私と彼との出会いは、とても数奇なものだった。
一度は、人通りの多い歩道で。私はとある企業に勤めているのだが、まぁ、大手の会社だから、交渉事やらトラブルやらも多いのだ。その日、私は別の会社―仮にA社とでもしておこう―との交渉に出かけていて、その帰りだった。交渉は、決裂ともいかないが成功ともいかず。検討します、なんぞ当たり障りのない台詞で暗に社に帰るよう言われてしまい、わざわざこの炎天下、私が出向いた意味は、などと愚痴をこぼしたくなるのも仕方あるまい、などと考えながら、歩道を歩いていた。高いヒールと、吹き出すような汗でべたべたと気持ち悪い化粧にうんざりしながら。
そんな私の隣を、汗一つかかずひょうひょうと歩いて行ったのが彼だ。歩く、というより、彼の場合スキップでもしている、というのが正しいだろう。上機嫌に軽薄な歌を歌い、音符を漂わせながら人混みをスキップしていく青年。行動は子供そのもの、いや、子供よりもよっぽどたちが悪い。高校、大学生だろうか、こんな時間に街中を、しかもこんな上機嫌にうろつく青年が、マトモであるはずがない。彼のまわりは自然と人が避けていき、まるでモーゼが海を割ったように人混みが二つに分かれていた。
出番を間違えたピエロのような滑稽さと、気味悪さ。
それが、彼についての第一印象だった。
ふたたび彼に出会ったのは、以前出会った―というより、見かけただけなのだが―あの日から数ヶ月が経過してからだった。あの日といっても、そこまではっきり日付まで覚えているわけでもない。日々の業務をこなしているうち、いつの間にか土曜日曜が過ぎ去っていった、ということが知らぬ間に何度も繰り返して、数ヶ月が経っていたのだ。
以前のあの滑稽な青年を見かけてから数ヶ月後、私はビルの屋上で佇んでいた。ついさっきまで会社の呑み会に参加していたのだ。もうとっくに終業時刻は過ぎていたので帰りたかったのだが、半ば強制的な上司の誘いに帰ることも出来ず、酒の臭いをプンプンさせ、赤ら顔で若い女子社員をねっとりと眺める酔っ払いや、もともと得意ではないのに次々注がれるアルコールに辟易して、風にあたってきます、などと適当な理由を付けてある程度の金を置いて一階の居酒屋を抜け出し、そのまま階段を上がって屋上で休んでいた。冷たい夜風と、月のない星空が私の頭を冷やす。私の人生は、なんてつまらないんだろうか。
月曜日から金曜日、朝9時の始業時刻から夜18時の終業時刻まで、ずっと仕事漬け。昼食時間も仕事に割かれ、お茶休憩なんてもってのほか。夜は夜で18時から夜中の2時3時までびっちり残業漬け。花の土曜日日曜日、それはまるで桜のように。今度の週末なら、この日なら代替がきく、そう言われ続けて何年になる?はい、もう4年になります。なんて、馬鹿か。
月月火水木金金、あれはウソだわ。まだあたしが学生だったころ、月曜日は天国の日曜日のあとの地獄だった。金曜日は五日間の疲れのご褒美、土曜日が待っていた。日曜日があるから月曜日があって、土曜日があるから金曜日があった。今じゃあもう、土曜も日曜もない。ついでに土用の丑の日も。
火火火水木木木。そうだ、火火火水木木木なんだ。
「お姉さん、マリオネットなの?」
「マリオネットって、何?」
「マリオネットっていうのはね、手とか足とか、頭にも!身体じゅう、いろんなところに糸がつけられた操り人形なんだよ。ここにも、そこにも、ほら、頭の中まで!お姉さん、いろんな所から糸が出てる。」
あたしに話しかけていたのは、あたしと会話していたのは、あの日のピエロ青年だった。あの日みたいな上機嫌ではないけれど、やっぱり笑って、子供みたいに。いいえ、子供よりよっぽどたちがいいわ。
「お姉さん、もういやになっちゃった。あなた、お姉さんに繋がってる糸全部、ちぎっちゃってくれないかしら。」
「…ごめん、お姉さん。ボク、無理なんだ。マリオネットの持ち主じゃないと、マリオネットを自由にしてあげられないんだ。」
「そう…」
「でも、自分で千切れるよ!その糸、全部!でも…」
「なぁに?」
「…また新しい糸が、お姉さんに絡みつく。だって、あのお兄さんも…」
「ありがとう、坊や。貴方、優しいのね。お名前は?」
「チヒロ、帰りましょ!」
ビルの下からこちらを見上げて叫ぶ、可愛らしい金髪の女の子。
「チヒロ、チヒロ君っていうの?」
「ハヤくこいよ、カエるぞ!」
今度は向こうのビルから、活発そうな赤茶髪の男の子。
「ちひろ、かえろーよ!」
「ちひろ、かえろーぜ!」
今度は月のない夜空に、仲のいい紫髪の双子の男の子と女の子。
「うん!今いく!」
ああ、待って!あたしも、そっちに!
「バイバイ、お姉さん。僕は、ちひろっていうんだよ。」
「よかったね、おねーさん。」
「よかったな、おねーさん。」
「ぜんぶぜんぶ、いとがほどけて。」
「これでおネエさんは、ずっとずっとジユウだぜ。」
“ばいばい、おねえさん。マリオネット卒業、おめでとう。”