【第四章:エマージェンシー1】

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【第四章:エマージェンシー1】

あの日、僕たちはまだ空が明るくなる前、寮内に響いたけたたましいベルの音で一斉に目を覚ましました。今まで一度も鳴ったことがなかった、寮にいた誰もが初めて聞く非常ベルが鳴らされたのです。ベルのボタンを押したのは団長でした。まだ着替えもせず、寝巻きのままダイニングルームに駆け込んだ僕たちがテーブルの上に見つけたメモには、走り書きした団長の文字でこう書かれていました。

『銃武装し、治療棟へ。ピエロたちが脱走した。』

メモを一目見て僕たちは、即座に治療施設へと走りました。

人を殺すことに全く躊躇せず、目に映り手に触れるものすべてどんなものでも殺人のための道具にしてしまう危険なサイコ・ピエロが何人も脱走したなんて、こんな緊急事態があるでしょうか。

普段の任務から一人のサイコ・ピエロを制圧し、保護するために“歌姫”と“猛獣使い”“の小隊約四十名、そして指揮官”支配人”の戦闘部隊が揃って出動しているのに、複数のサイコ・ピエロを制圧するために団長一人だけでは危険すぎます。団員たちが先に到着していたとしても、彼らはまだサイコ・ピエロに対する戦力としては不十分なのです。

どうか、団長が殺されていませんように。

サイコパス・ピエロに殺され、地面に転がされた団長の無残な姿が何度も頭をよぎり、僕は一心に祈りながら走りました。

この三年間を団長のそばで過ごしていれば、団長が誰よりも強く、機知に富んだ人だということは、五人のうち誰も口に出さずとも僕たちはみんな分かっていました。僕たち幹部はみんな、ここにきてから団長の授業しか受けていないのです。身につけたたくさんの知識も、サイコパス・ピエロを相手取って戦えるまでになった強さも、全て団長から教わりました。ですから、僕たちはどうしても団長の、穏やかな声と笑みに隠された確かな強さと莫大な知識を目の当たりにし、感じずにはいられなかったのです。

団長は誰よりも強い、それはわかっていても、不安はどうしても不穏な映像となって頭をよぎります。何度も首を振り、不安を振り払いながら走った寮から施設への道が、あんなに長く感じられたことはありません。

僕たちがやっと団長の下に着いたときには、治療施設外に脱走したほとんどのピエロはまだ制圧されていませんでしたが、その施設内に留まっていた数人のピエロはすでに保護・収容され、施設への出入口は封鎖されていました。脱走したピエロ九名のうち保護されていないピエロは七名、そのうち四名は射撃訓練場から銃を持ち出した部下たちに撃たれて手負いだったので、まだ見つかっていないピエロは三名しか残っていませんでした。

「残りの三人は恐らく建物に侵入しているはずだから、君たちの部下を借りてどの建物が被害を受けたか探させているよ。窓か鍵かが壊されていれば、そこにピエロが這入っているはずだからね。」

図書館や団員寮を鋭い視線で観察しながら、焦燥と不安を抱いて全力で駆けてきたことで息が上がった僕たちの気配を捉え、振り向かないまま団長は冷静に言いました。

「捜索に行った団員からの報告がくれば、そこを探しに行ってくれ。ああ、カーリーは先に治療にあたっているのかい?」

膝に手をつき、施設の壁にもたれて息を整える僕たちに振り向いた団長の言葉に、僕は思わず首をかしげ、あたりを見まわしました。戦力的には幹部五人のうちで一番弱いはずのカーリーが、どこに脱走したピエロがいるのかもわからないような危険な状況で、いくらピエロと戦って負傷した団員を治療するためとはいえ一人で離脱するはずがありませんし、もし離脱していたとしても何も言わずに行くはずがありません。僕たちは誰も一時離脱を告げる彼女の声を聞いていなかったので、カーリーだけがまだ着いていないということは有り得なかったのです。ですが、ベルが鳴ったとき、女子寝室の二つのベッドがすでに片方カラだったとすれば、それはどうだったでしょう?

僕はさぁっと身体中の血液が下りていくのを感じました。

非常ベルが鳴って飛び起きた僕たちがダイニングルームで団長の書き置きを見つけたとき、カーリーの姿はそこにありませんでした。あの大音量の非常ベルに気づかず眠っていられるはずがありませんから、ベルが鳴る前にもう、彼女は寝室から消えていたのです。

「その様子では、最初からいなかった、ということか。リコリス、念のために寝室を見てきてくれないかい?カーリーが何か残しているかもしれない。」

団長の命令に頷いて応える代わりにすぐさま治療棟の壁から身を起こして寝室に走っていくリコリスの後ろ姿を見送っていた僕とは違い、団長の視線はまた図書館に向かっていました。

突然のピエロ脱走の知らせ、それに団長が殺されてはいないかという不安で頭が働いていなかった僕はカーリーがいなくなっていた理由を深く考えられなかったので、能天気にリコリスを見送っていられたのですが、夜が明ける前に起きた突然の騒ぎにいつも通りの軍服姿で応じていた団長は、たぶんまだ眠ってすらいなかったので、はっきりと思考を働かせ、カーリーの失踪の理由が誘拐であり、このサイコ・ピエロ脱走騒ぎがカーリー誘拐のために企てられた計画である最悪の可能性を捉えていました。つまり、団長はこのときすでに、団員からの報告を受けて僕たちが捜索し、確保できるピエロが残り三名のうち二名だけであり、発見されなかった残りの一名がカーリーを誘拐していることを予想していたのです。そしてその予想は、ピエロに侵入されたと報告が来た施設に捜索に入った幹部が二名しかピエロを捕獲してこず、第二、三期団員が入団して百名近くにも増えていたI・N団員が一斉に寮内を捜索しても残りの一名とカーリーを発見できなかったことで確信に変わりました。

カーリーが失踪する前にいたはずの寝室を確認し、戻ってきたリコリスは、持っていた銃を一丁団長に差し出しました。一目見て団長は、すぐにそれが誰の銃であるか判別したようでした。リコリスの手から銃を受け取りながら、団長は小さなキズがいくつか付いた銃身を見つめて呟きました。

「カーリーに持たせていた銃だね。これは、どこに隠してあった?」

「あたしのベッドの下、壁際まで投げ込んであったわ。思い切り投げ込んだみたいだけど…。団長、どうして隠してあったと分かったの?」

カーリーが消えた現場を見てき、不安になりながらも驚いて訊いたリコリスに、団長は真剣な表情で、届けられたばかりの銃を調べながら答えました。

「ピエロが一人、この寮から脱走したんだ。八歳の男の子で、最近カーリーが気にかけていた問題児だよ。詳しいことは後で話すけど、僕の予想が正しければそのピエロがカーリーを連れて逃げている。今のカーリーならきっと、そのピエロに向けて撃つよりも銃を隠すことを考えるだろうと思ったんだ。」

団長は手早く銃を操りながら、誤射を防ぐための安全装置が解除されていないこと、僕たちが今片手に握っている各々の銃と同じようにカーリーの銃にも可能なだけ弾が込められていることを確認し、腰元のガンホルダーに銃を納めました。

「突然カーリーが誘拐されて、その犯人が彼女に治療されていたピエロだったとなれば、君たちのショックがこれまでにないほど大きいことは解っているよ。君たちが今すぐにでも彼女を助けだすためにピエロを追いたいと焦っていることも、ね。」

まさに団長の言葉通りに僕たちは、何処に連れていかれたのかもわからない親友を追って走らせようとする暗くて得体の知れない衝動を必死で抑えつけながら、底の見えない濁流のようなその衝動に無理やりにでも流されてしまいたいと願っていました。とくにレオナルドは、妹がいとも容易く人を殺す狂人に誘拐されたのですから、何も言葉を発さずとも、思考のなかで闇のように暗い感情が渦巻いていたのでしょう。今までのいつよりも暗く絶望的な顔で、壁に凭れきって足元の地面を見つめていました。

「だけれども、だ。」

団長はわざと冷笑を含ませた視線で僕たち一人一人を眺め、失望したような声で一言だけ言いました。団長の暖かい愛情を感じさせない表情や声をそれまで向けられたことがなかったので、僕たちは一気に暗い衝動を抑えつけ、顔をあげ、衝動に流されたいという願いを捨て去ることに成功し、一瞬のうちに姿勢を正しました。僕たちが背筋を限界までまっすぐに伸ばし、畏怖がこもった敬礼までの流れを自然に再生する直前、団長の表情と声は穏やかで優しくなり、愛情とここにいない愛児への悲しみを湛える視線が戻りました。

「あの子を誘拐したピエロが今何処にいて、何を目指しているのか、知らない限りは追っていけないだろう?君たちはまず、脱走したピエロを収容し、被害を修復するための指示を部下たちに出すんだ。それが済んでから、カーリーを取り戻すための作戦を考えよう。いいね?」

「はい、団長!」

幹部四人の、それぞれの返事が重なりました。

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