小児性道化師症候群【第六章:カーリーが死んじゃった 1 】

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【第六章:カーリーが死んじゃった 1】

カーリーが誘拐されたあの夜から七日が経ち、最後の秘密会議で奪還作戦を完成させ、それぞれ部屋に戻る気力も残らずダイニングルームのテーブルに眠って夜が明けた日、その日の夜に作戦決行を控えたまだ早い朝、僕は見たことのない夢を見ていました。初めて見るその夢は、現実に起こったことではないけれど、まるで本当に起きたことのあるような感覚のする、懐かしい現実的なものでした。

その夢は、数年前の僕がI・N幹部として選ばれ、寮に入るため家を出る日の朝でした。お母さんと暮らしていた小さな家の前に僕は立って、もうバスが迎えに来ていました。お母さんが僕に話していたので、団長はバスの座席で僕が乗り込むのを待っていたのです。お母さんは僕を引き留めたいと思っていました。僕の両肩を細い腕で強くつかんで、お母さんは泣きそうに低い声で僕を説得していました。悲しみにうるんだ黒い暗い瞳、これからお母さんのではなく僕の意思一つで決まる冷たい未来に震える薄い上品な唇、大切に愛し、育ててきた一人息子が家を出て行こうとすることへの不安と抵抗に首を振るたび揺れる綺麗な丁寧に整えられた長い髪を、お母さんの低い声を聞きながら僕は眺めていました。僕自身はお母さんと離れることをそれほど辛く感じていなく、そのための寂しさは団長とともに行くことに掻き消されて薄れてしまっていました。別れはお母さんにとって、団長と行くと自ら決めた僕には計り知れないほど辛いようでした。

団長は、僕とお母さんを窓ガラス越しに眺めていました。彼が別れに対面させた親子の光景を眺めながら、何も言わない団長は満足げでした。

僕はとうとう完全に決意し、僕を捕まえて留め置こうとするお母さんの強い手を振りほどきました。

「さよなら、お母さん。」

生まれて育った小さな家と愛する暖かなお母さんに別れの意志を告げ、背を向けた僕を迎えるため、バスの扉が自動で開き、席を立った団長がステップを一段下りるのを、僕は見上げていました。団長は僕の意思を認めて歓迎してくれ、微笑みながら上品な白い皮手袋をはめた右手を僕に差し伸べました。僕が団長について共に行くことを、威厳ある団長が許してくれたのは嬉しくて素敵なことに感じられました。僕は緊張にこわばる手を団長に伸ばして、自分のものながらほとんど動かない固い無表情のまま、そっと手袋に指を触れました。

見たことのなかったその夢は、差し伸べられた細い手に僕がうやうやしく指先を触れたところで終わりました。その夢と現実とはあまりに違っていて、なぜこのときにあんな夢を見たのか不思議に感じられたほどです。

現実で僕がお母さんと二人暮らしていたあの小さな家を出たのは、僕が何も知らない間にそうなるように団長が手をまわしていたからだったし、僕はあの日団長とお母さんを天秤に乗せたり、その上で差し伸べられた団長の手に触れたりすることもありませんでした。ほとんど強引な団長の迎えで寮に入った、家を出たあの日以来会っていないお母さんと数年ぶりに対面した夢のなかで僕は、やっぱりその日初めて会った団長についていくことを決めていましたが、それは眠っている間の夢なのです。

夢のなかで僕を少しのあいだだけ引き留めたお母さんの泣きそうに低い声に代わって、現実に聞こえた誰かの抑えつけたような小さい声に、僕はゆるやかに目が覚めるのを感じました。何かに顔をうずめたようにくぐもったその声はもうほとんど音としてしか分からない、言葉には聞こえないほどでしたが、聞き過ごしてもう一度眠ってしまうにはあまりにも不安げで、痛々しくさえ思われました。その声は泣いていたのです。七日間も続いた長い秘密会議を共にした三人の誰か、この悲痛な声の主は、小さく可哀想に弱ったおえつを絶えず震わせながら、ときおり縋るように団長を呼び、続けようとした言葉を詰まらせてまたしゃくりあげました。

「レオ、レオ、ねぇ、レオナルド。」

たったひとりまだ暗い部屋に起きて、ひどく悲しく不安に泣きじゃくる彼を、僕はとうとう小さく控えめに呼びました。「怖い、助けて。」とでも言いたげに、あまりにも寂しげに彼が呼んで探す団長が、そこにいないような気がしましたから。でも、実際にレオナルドが聞きつけたのは団長の声でした。暗くて気づいていませんでしたが、実は団長はそばにいたのです。七日間ずっと空席になっていたけれど、誰もそこに座らなかったレオナルドの隣の椅子を少し後ろに引いて腰掛けていた団長が、控えめに呼んだ僕の声に被せるように彼を呼び、返事してやったのでした。

「ここだよ、レオ。ここにいる。ねぇ、レオ、ここにいるよ。」

団長の声で呟かれた返事は、いつもの穏やかな団長の声とはまた違う柔らかい調子で、長らく聞いていないけれど慣れ親しんだ声のように聞こえました。あとで気づくとそれはカーリーの声の調子や抑揚に似ていて、とくに眠たいときに彼女があくび交じりに何か言うときにこんな調子になるのです。

彼女の居場所や攫わせた組織についての情報が一つ一つ明らかになって、新たな情報が入るたびに綿密に作戦を考え巡らすことで彼女の奪還には近づいていっても、けっきょくカーリーの生死については知り得なかった僕たちは、彼女が攫われてから七日間、ひどく彼女に焦がれていました。ほんの一瞬でも、後ろ姿だけでも、カーリーをせめて一目みて、カーリーの気配をほんの僅かでも感じたいと、ほとんど祈るように、僕たちは何度も考えました。とにかく彼女は生きていると安心して、もうとっくに殺されたかもしれない、まだ殺されてはいなくても今にも衰弱しきって死んでしまったかもしれないと、恐怖を伴って僕たちを苦しめる不安から逃れたかったのです。

「ねぇ、どうしたの?」

カーリーが眠気をちっとも隠そうとしないとき、一番平和で暖かく、僕たちが五人揃って団長のそばにいて、守られていると感じられる、僕たちと団長だけしかいない、幸福な満ち足りた気分になれるとき、カーリーがあくび交じりにしゃべるのに似た調子の声は、僕たちが長い間焦がれ続けた彼女の役を果たすに十分でした。僕はまた、ほんの一時的にだけれど満ち足りた幸せな気分を味わい、レオナルドもその素敵な気分に満たされたようでした。彼の悲痛な泣き声は静かになり、僕は安心に満たされた身体の力が抜けて、くたりと机に手を伸ばして、力なくすべるままにテーブルに突っ伏しました。

「お休み、レオ、チャーリー。よく眠るんだよ。」

気怠さの代わりに暖かくて幸せな気分に包まれながら心地いい眠気に崩れ落ち、僕はまた、今度は夢も見ないくらいに深く、眠りました。レオナルドの声に目が覚めたまだ暗い早い朝が昼の手前に移り変わり、決行日を迎えて緊張したリコリスとウーゴの気配を感じて普段よりずっと遅い時間に起きるまで、僕はぐっすりと安らいだ気分になって眠ることができました。彼女が攫われてからの七日間、団長に振り返ることを許されず、自分たちだけで考えた作戦が成功するかわからないことへの不安、今この瞬間彼女が堪え切れずにとうとう死んだかもしれないという恐怖がどうしようもなく積もり続け、恐ろしく重い憂鬱に押しつぶし潰されかけていた僕たちにとって、たとえそれが団長の声で模しただけの虚像であっても、カーリーの気配はとても安心できるものだったのです。

時折うっすらと感じられるだけの気配や団長の声で模した虚像ではなく、カーリー自身を取り戻すために、無限にでもわきだす不安や恐怖、それらに感じる絶望から目をそらし、とうとう僕たちは作戦の決行を受け入れました。作戦を決行する日や時間、出立の場所などは決めても、その決定をなぞらえて実際に体を動かすには、狂言で捏ね上げ作った勇気がどうしても必要でした。狂言で作った虚像ではない、「絶対に成功する」、「絶対にカーリーを取り戻せる」と盲信できる実体の勇気を持てるだけの精神の安定はあるはずがありませんし、だからといってこの作戦は絶対に成功するという確信も持てないままでは怖くてとても実行に移せません。もし失敗すれば、彼女がまだ生きていたとしてもそこで死んでしまうかもしれないし、そもそもすでに死んでいるかもしれないのです。

自分たちが完成させた作戦の前に立ちながら、それをなぞり始められない僕たちの背中を突き飛ばして、無理にでも作戦を決行させられるのは、何の根拠も理屈もなく、それを唱える自分たちでさえ何を言っているのかよく分からないほどの狂言、そこから生み出された空虚な勇気だけでした。作戦を決行するとあらかじめ決めてあった夜が闇でもって僕たちをカーリーのもとへ誘うまでに、僕たちはどうにか空虚な勇気をこしらえ集めて作戦決行の決意を抱きしめ、窓もカーテンも扉も閉めきった仄暗いダイニングでうずくまって籠り、とうとう日が暮れるまで待ちました。

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