小児性道化師症候群【第六章:カーリーが死んじゃった 2 】

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【第六章:カーリーが死んじゃった 2】

「さぁ、もう夜だよ。さきにバスに乗って、そこで座って少しお休み。」

長く閉じこもった重い絶望的な雰囲気の真っ暗な部屋に、闇で冴えた目には眩しい廊下の明るい光が一筋細く差し込み、それを遮るように団長が立って、僕たちに夜の訪れを告げ知らせました。僕が起きたすぐ後にレオナルドが起きて、知る限りそのときから誰も扉に手をかけることはなかったので、僕たちは昼前から日暮れまでずっと明かりも取らない闇の中に引きこもっていたことになります。僕たちは誰も、ちょっとカーテンを開けてみて太陽を確認することをしなかったのです。僕とレオナルドだけは、カーリーの虚像を聞いてわずかな彼女の気配を感じることができたけども、リコリスとウーゴはそのとききっと眠っていて感じていないし、起きていた僕たちにしてもやっぱりそれは大きな響きにはなりませんでした。やっと感じられた彼女の気配に安心して眠っても、目が覚めたら彼女はいなくて、彼女を助ける作戦を前にした緊張と不安が混じった悲嘆な雰囲気が僕たちを巻き込んでしまいましたから。僕たちは誰も昇り、沈む太陽を見て迫る時間を知ろうとするだけの余裕なんて持てなかったし、抱えている空虚な勇気もただ作戦を決行するためだけにしか使えなかったのです。

「行って、さきにバスに乗っておいで。」

ダイニングとは違って灯りのつけられた廊下から差し込む眩しい光にただ目を細めるだけの僕たちに、団長は穏やかな優しい声でもう一度言って、少しだけ開けて留めていた扉を全部開けました。作戦決行のときになって、ひどく息苦しく、ぼんやりする緊張、考えたくない絶望の感覚に押し込められ、ダイニングルームを出ようとしない僕たちに、団長は扉を大きく開けるだけで、外に出て彼女のための作戦を始めるよう促したのです。穏やかで優しい声、表情、カーリーと僕たち四人も心配してくれている暖かな愛情の雰囲気は、とろとろとなさけなく行動を起こさない僕たちに対しても厳しく取り消されたりせず、それどころかいつもより密に感じられました。七日間に自分たちだけで誰にも頼らず重大な救出作戦を練り上げ、I・N寮に入ってからの数年間をずっと離れず過ごしてきた親友の生死を考えたことによって、見えない心をひどく痛めつけられ、僕たちは弱らされていました。精神的な見えざる重りに壊されそうになっている僕たちには、暖かくて柔らかい、守られていると安心できる心地いい愛情が、とうとう壊れてしまわないためになくてはならなかったのです。団長はそれを感じ取っていて、今にも崩落しそうな崖っぷちぎりぎりに僕たちが立っていることにも気づいていました。

「了解。」

小さな声でやっと返事して、ウーゴがまず立ち上がり、ふらつかないゆったりした足取りで歩いていきました。扉から差し込む明るい道を踏み、団長とすれ違って、扉をくぐり、ほんの少し振り返りもせず、彼は遠ざかっていきます。

だんだん小さくなり、じきに見えなくなったウーゴをまだ見つめながら立ち上がらない僕の後ろで、心を決めたリコリスがすばしこく立ち上がりました。力なく床に垂れ下がっていた僕の手首を握って立ち上がらせ、もう早足で歩きだしながら、彼女は凛としたまっすぐな声で僕を呼びました。

「行きましょう。」

リコリスに手を引かれ、僕は彼女の少しあとを早足で明るい道に踏み込んでいき、団長の横を駆け抜けて、さきに出て行ったウーゴを追ってバスを目指しました。僕たちをカーリーのところへ連れていく、この寮でそれ一台だけしかない送迎用のバスは、もう裏口に待っているはずです。僕たちが前にそれに乗ったのは、団長に初めて会った入寮のときでした。ここにいないカーリーだけは、このバスによってS・S本部に送られ、Ⅰ・N寮に帰されて馴染んでいましたが、それはずっと昔の、サイコパス・ピエロが発生するより前のことです。サイコパス・ピエロの捕獲と治療をI・Nだけが任せられるようになってから、実質カーリーが治療を全て一人で担うことになってから、彼女がS・S本部に通うこともなくなりました。今になっては、訓練所を卒業した無表情の団員を新たに運び入れるために、年に一度しか使われていません。もうほとんど出番のなくなっているこの懐かしいバスは、まだ幹部候補生だった僕たちがここに来たときとは違って、こっそりと、誰にも見つからないように、団長に連れ出されて秘密の作戦を決行する僕たちを遠くまで運び出してくれるのです。

「絶対よ、やれるわ、絶対に。」

あまりに速く走ってきて、さきに行ったはずのウーゴを気づかないうちに追い抜かして一番に乗り込んだバスのなかで、僕と離れた席に座ったリコリスが小さく呟いたのが分かりました。言葉には自信が満ちていたけれど、僕はそれを聞かなかったふりをしました。声は凛と美しい響きを保っていても、たまに部下たちがいないときにだけ聞こえる彼女の気分がいいときに歌う声のような素敵な朗らかな感じがありませんでしたし、通路を挟んだ向こうの座席に、バスの灯りを腕で遮り、顔を覆い隠して背もたれに身体を預けきっている姿が見えましたから。

気づかないままにだんだんと速く走って、いっしょに一番乗りしたリコリスと僕は焦り、緊張していました。暗鬱とした絶望的な雰囲気に満ちたダイニングルームから出てき、作戦決行のために身体を動かして、ぼんやりと横たわる諦めと矛盾する苦痛なカーリーへの切望、恐怖は拭われたけれど、七日のあいだ積もり続けたそれらぼんやりと苦しい絶望に追いやられていた作戦決行への緊張が代わりに僕たちの目前に突き出されたのです。けれども落ち着かない昂った焦りと緊張は長く持たず、僕とリコリスの次にウーゴが到着するまでの間に、苦痛とあきらめに満たされた安定した穏やかな絶望に侵食されて消えました。僕たちがほとんど半日閉じこもって過ごしたダイニングルームと同じようにバスのなかも、未だ親友の生存を諦められない切望とそこからくる苦痛、もうカーリーのことも、親友たちが欠けずにそこにいた暖かな愛情溢れる日々も諦めてしまった暗鬱に沈み込んでしまったのです。ウーゴが到着してからいくらか経って、数冊の本の形が見える小さな紙袋を抱きかかえ、腕の中のそれを見つめて俯いたままレオナルドが乗り込み、ほとんどいっしょに着いた団長がそれぞれ別れた座席を選んだ僕たちを静かに見渡して、とうとうバスは出発しました。親友のための作戦が、僕たちによって決行されたのです。

カーリーがいなくなったあの夜の最初の会議から、少しずつ情報と予想と思案とを編み込み、日が経つごとに悲嘆と絶望と相反する希望への苦痛を注ぎ込みながら、とうとう完成させた救出作戦を、僕たちは確かに実行に移し、その通りに動いたはずでした。実際、真っ暗な僕たちのダイニングルームに団長が迎えに来たとき、ドアが開く少し前、廊下に穏やかな規則で足音が聞こえたのは確かなことだし、リコリスと二人中庭を走って横切ったとき、だんだんと力が弱くなって離れかけていた彼女の右手がいちど強く握って、そしてすぐに僕の左の手首をひく熱い手が離れた感覚を、僕はまだおぼえているのです。それらの記憶は、確かにあの計画の途中で、ぼんやりと絶望をもって浮かびあがるのです。そしてそれは、誰かの笑い声が混じった会話、たとえば、よく飛び交った定番だけれど面白いジョークやちょうどそこに居合わせた誰かと笑い転げた小さな出来事の記憶なんかを欠片も伴わず、何よりもそこにカーリーの姿と声が映らない、まったくあの後にも先にも日常には有り得ない、異様な時間の記憶なのです。

確かに僕たちは、あの夜攫われたカーリーを取り戻すために、七日間かけて完成させた僕たちの作戦を決行しました。あの場所、寮の裏口に待っていたバスにリコリスと乗り込み、僕と彼女はそれぞれ違う列の真ん中あたり、斜め前後になる席を選びました。ウーゴはまっすぐ通路を歩いて、突き当たった一番後ろに座り、レオナルドはひどく落ち着かないまま団長の運転席にくっついたすぐ後ろに乗り込みました。リコリスに連れ出されて僕が出ていったとき、レオナルドはまだダイニングルームに残っていて、扉から一番遠い壁際で、まだうずくまっていたのです。

そこまでは、確かに覚えています。レオナルドのすぐ後に団長が運転席に歩いていって、そうしてバスが動き出したのです。僕たちの計画では、バスが僕たちを目的地まで、直接送り込んでくれるようになっていました。そしてそれは確かに計画に沿って進み、その間何も起こっていないはずなのです。

けれども僕は、バスが出発してから、団長が僕たちを呼んでくれるまで、目的地に着いたと優しい穏やかな声で教えてくれるまで。

まったく何も思い出すことができません。

その間だけ、僕は忘れているのです。

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